還暦過ぎコピーライターの怪顧録。

今日まで、見たこと、聞いたこと、感じたこと。

ペンだこは、コピーライターの証。

まずコピーライターになって入社時に会社から渡されたのは『名刺』、『社章』、『2Bの鉛筆』、『社名の入った原稿用紙』です。名刺に“制作部コピーライター”と書かれているのを見て、本当に嬉しかったことを思い出します。

はじめはキャッチフレーズも、ボディコピーも、すべて2Bの鉛筆で書いていましたが、2年目ぐらいから、キャッチフレーズは『ぺんてるサインペン』で書くようになりました。

まだ制作部にはワープロ(すでに死語)が導入されていなかったので、原稿用紙の段階で長~いボディコピーに赤字が入ると、さあ大変!

修正箇所のみ新たに別の原稿用紙に書いて、元の原稿用紙の上から切り貼りをしたり、またはOKになったコピー原稿の部分だけをコピー(複写)して、その後に書き足したりするんです。めちゃくちゃ面倒でしたね。

毎日鉛筆で原稿用紙に何百文字も書いていましたから、必然的に“ペンだこ”ができます。あの頃、某広告制作会社のTCCコピー年鑑用に制作した広告のメインビジュアルが、コピーライターの“ペンだこ”でしたからね。

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私がワープロを使ってコピーを書きはじめたのは87年頃。会社からコピーライター各自にワープロは支給されていなかったので、長~いボディコピーを書く時は、部内にあった3台のオフィス用ワープロの順番待ちをしていました。今の若い人には、もう『ワープロ』自体がピンときませんよね。

すでに多くのメーカーからパーソナルワープロは発売されていましたが、初期のものはモニタが小さく、表示できる行数も多いもので5~10行程度。長文のボディコピーを書くのには向いていませんでしたね。

88年にクライアントの松下電器パナソニックから今のノートパソコンのようにモニタが大きく、表示行数も格段に多い『パーソナルワープロ・パナワードU1PROシリーズ』が登場。CMに作家の『椎名桜子』が起用されていたワープロです。

私は3年ほどワープロを担当していましたが、その時はすでに担当を外れていたので、泣く泣く自腹で購入し、会社に持ち込んで使いはじめました。

購入したのは“日本一の安売り王”宮地社長で有名だった『城南電機』の自由ヶ丘店ですが、決して安くはなかったです。

熱転写式プリンタ内臓のワープロで、ちょうど男性用ビジネスバックぐらいの大きさ。結構重かったですが、当時は専用バッグに入れて持ち歩いていました。

各コピーライターにパーソナルワープロが支給されはじめたのは89年頃からだと思います。転職した広告代理店で、出社初日に某社のパーソナルワープロが机に置かれていたのですが、ちょっと古いタイプでモニタが小さかったので、自分のワープロを使っていました。

結局、その次に転職した外資系広告代理店でもワープロを持ち込んで使っていましたから、元は十分に取れたと思います。

その後、98年ごろ境にワープロからノート型パソコンに徐々に変わっていきましたね。使いこなすのに結構時間が掛りましたが、「いや~便利になったものだ。」と驚きました。

コピーを書く際、今も変わらないのは、キャッチフレーズを『ぺんてるサインペン』で書くことぐらいでしょうか。但し、原稿用紙にではなく、コピー用紙にですがね。残念ながら、“ペンだこ”は見当たりません。

80年代コピーライターブームの洗礼②

あれは確か就活中の11月初旬、ゼミの教授に呼び出され、その帰りに大学の求人掲示板で見つけた“名も知らぬ広告代理店X”に履歴書を送った翌日のことだったと思います。コピーライター養成講座にいくと、事務局から『ナショナル宣伝研究所(通称:ナショ研)』が新卒のコピーライターを募集していると聞かされました。

この会社は、松下電器の初代宣伝部長だった竹岡リョウ一氏が独立する際、松下幸之助氏から、宣伝部と切磋琢磨して“良い広告を制作する会社をつくれ”との命を受け、1956年に創業した日本で一番古い広告制作会社です。OBには、横尾忠則氏、山藤章二氏、仲畑貴志氏などがいらっしゃいますが、在籍したことを伏せている方も…w

早速応募すると、課題が送られてきました。内容は『大型冷蔵庫』と『ファクシミリ』のコピーおよびビジュアル案、さらに「私と広告」をタイトルにした作文です。ギリギリまで考え抜きたかったので、郵送ではなく締切日に六本木にあった社屋に課題作品と履歴書を持っていきました。その時に総務の方に聞くと、現時点で応募者数は60名ほど、採用枠は1~2名とのこと。非常に狭き門です。

今でも不思議なのですが、私は何故か「ここに通うことになるんだなあ~」と感じて、『ナショ研』の裏にあった“焼き鳥屋“で飲んで帰りました。まだ早い時間だったので社員の方はいらっしゃらなかったはずです。たぶんw

私が感じたように、書類と課題審査を通り、一次面接、最終社長面接と順調に進み、11月末に内定の電話をいただきました。でも正式な通知が送られてきたのが12月半ばで、それまでは「本当に受かったのか?」と不安でたまらなかったです。

そうそう“名も知らぬ広告代理店X”ですが、こちらは最初の面接官が社長だったらしく、あれやこれや挑発されて私がムキになって反論を繰り返していたら、いきなり「君は、筆記試験も、最終面接も免除!内定です!」そして帰り際に社長の名刺と交通費を渡され「でも他の応募者の手前、筆記試験だけは一応受けてね。白紙解答でも良いから。」と、まさに“鳩に豆鉄砲”状態です。最終的に『ナショ研』を選んだのですが、不思議な魅力のある会社でした。

f:id:ymo1959:20201013134930j:plain(※別に正体がばれても良いのですが、念のため個人情報なので保護しておきます。)

入社後、とにかく残業が多く、電車で帰れるのは稀でしたが、たまに大学の同期や後輩たちと飲むとチヤホヤされ、名刺1枚でナンパも連勝。それだけブームの職業だったということです。そういえば、『金魂巻(きんこんかん)』という本が売れ、バブル景気の到来を目の前にして、浮かれはじめていた時代でしたね。

当時の著名なコピーライターはそれぞれ個性を売りにしており、TCCコピー年鑑のテーマが『コピーは僕だ。』という年もありました。一方、私が入社した『ナショ研』は、“プロダクト中心主義”で、来る日も来る日も個性を抑えた“生真面目なコピー”を書き続け、『コピーは僕だ。』どころではなかったです。

でも、その後に転職した外資系広告代理店で“戦略的ブランディング”を徹底的に叩きこまれるのですが、その土台はすでに『ナショ研』で築き上げられていたと思います。

80年代コピーライターブームの洗礼①

私が広告業界を志したきっかけは、80年代に巻き起こったコピーライターブームです。就職活動を控えた大学4年生になる春、就職読本を読んで「広告の文章を考える仕事か…これこそ天職だ!」という根拠のない自信から、宣伝会議コピーライター養成講座に通いはじめました。

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(※別に正体がばれても良いのですが、念のため個人情報なので保護しておきます。)

正直なところ、当時NHK教育テレビの『YOU』で司会を務めていた糸井重里氏以外のコピーライターについてはまったく知らず、養成講座の初日に、周りの受講生が『広告批評』を片手に、「仲畑さんの××のコピーが良いよね!」「真木準の△△のコピーも彼だから書けるんだよ…」などの会話を聞き、面食らったのを覚えています。あの当時、『ナカハタ』といえば、野球の『中畑清』しか思い浮かばない私でした。

とはいえ、何とか養成講座も『一般コース』から『専門コース』へと進み、10月となり就職活動の解禁日を迎えました。大学のゼミ仲間が、次々と企業から内定をもらう中、広告業界、しかもコピーライター1本に絞っていた私は予想以上に苦戦!D通もH堂もD広も撃沈、I企とA通に至っては指定校制で受けられず、Y広では面接官に「またコピーライター志望か…頑張ってね!」と言われる始末です。広告制作会社も回りましたが、コネがない新卒は門前払いで会ってもくれません。

11月に入り、ゼミの教授に就活状況を報告に行った際、大学の求人掲示板に『コピーライター募集・広告代理店X』を発見。聞いたことがない社名でしたが、「就職浪人だけはしたくない」という焦りから、帰宅後、履歴書を急いで書いて郵送しました。

実はその日、教授から「まだ内定が出ていないのは君だけだよ。築地市場で仲買をしている友人の会社を紹介しようか?」と言われていたのです。もし首を縦に振っていたら、趣味の釣りではなく、仕事として“ゴム長”をはいて、魚を捌いてたかもしれませんねw(つづく)

 

再びブログをはじめます。

もう20年以上前になりますでしょうか…広告代理店を辞めて独立し、会社を立ち上げた頃、ネットに詳しい後輩にアドバイスを受けながら、せっせとブログを書いておりました。

しかし、忙しさにかまけて、いつしか書くのをやめてしまい、何ともはやコピーライターとして、お恥ずかしい限りです。

気がつくと私も還暦を過ぎ、ここらで一念発起。人生を折り返す意味でも、心を入れかえて、再びブログにチャレンジしようと思います。

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タイトルは 還暦過ぎコピーライターの回顧録ならぬ“怪顧録”です。私が広告業界を目指すきっかけとなった80年代のコピーライターブームから、バブル景気、ITバブル、リーマンショック、コロナ禍までに、見たこと、聞いたこと、感じたこと。

さらに、老舗の広告制作会社、国内外の大手広告代理店、デジタルマーケティング会社に在籍した経験から、“為にならない話”、ときどき“為になる話”など、あれや、これや書かせていただきますので、宜しくお願いいたします。