還暦過ぎコピーライターの怪顧録。

今日まで、見たこと、聞いたこと、感じたこと。

今ならパワハラ?の師弟関係?②

先回は私の師匠について書きましたが、不肖 の弟子だった私にも、4人の弟子がいます。もしかしたら、本人たちは弟子だとは思っていないかも知れませんがね。そんなこともあるので、名前はイニシャルで書かせていただきます。

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■不肖の弟子が教えた、4人の弟子たち。

最初の弟子はナショナル宣伝研究所に資料整理のアルバイトで入ってきた男性Mくんです。とにかくファッションが凄くて、当時バブル景気に踊りはじめた六本木でも目を引きました。まっ、とてもクリエイターらしい服装だったともいえます。

将来コピーライターになりたいというので、仕事の合間に課題を出し、一緒にブレストをしたり、お互いのコピー案を出して評価したり…と、私なりに頑張って教えたつもりです。

キャッチフレーズはイマイチでしたが、語りかけるような“柔らかめのボディコピー”は上手かったですね。ひょっとしたら、私より文章力は有るのかも?と感じた時もありました。

アルバイト期間は1年半ほどでしたが、私が入社して転職するまでの5年間、新人コピーライターが入ってこなかったので、彼にコピーを教えたことは、とても良い経験になりました。

彼がアルバイトを辞めて4、5年後でしょうか?ある後輩の結婚式の二次会で同席した時、彼から某有名誌のライターをしていると名刺を渡され、とても嬉しかったことを覚えています。

確か近々結婚も予定していると聞かされ、その二次会を途中で抜け出して、2人で近くのBarで祝杯を挙げたはずです。

■えっ!ウソ!コピーを書いたことがないの?

次の弟子も男性です。Fくんは新卒で外資系広告代理店レオ・バーネットに入社してきました。私が最初の教育係に命じられたのですが、まともにコピーを書いたことがない、まったくの素人です。

仕方がないので、私がコピーライター養成講座に通っていた頃に読んだ本を貸したり、課題を出して添削したりと、“コピーのいろは”から、それはそれは外資系らしく上品かつ丁寧に教えました。

その彼が3年目にTCC新人賞にノミネートされたのですが、「北京大学に留学したい。」という理由で突然退職。そういえば、早稲田で中国語を専攻していたっけ。私はすでに次の代理店に移っていましたが、一度会って話した記憶があります。

北京大学を卒業後、香港で起業して成功していると聞いていますが、昨今の香港の状況をニュースで知るたび、心配でなりません。

 ■はじめての女性の弟子は元営業部員。

3人目の弟子は女性です。ヘッドハンティングで転職した外資系広告代理店JWTで、Oさんは私の真横の席でした。彼女は新卒で営業部に配属されたのですが、コピーライターになりたいと社内試験を受けて、移動してきたばかりだったようです。

大手外資系メーカーのトイレタリー製品のコピーを担当していたのですが、コピーライターの上司はいません。一緒のチームではなかったのですが、見るに見かねて、最初はこっそりコピーの添削などをしていました。

元営業部だったので、英語が堪能で、頭の切れも良く、とても前向きでした。余談ですが、ほんの一時期お互いの住まいがとても近かったんです。

その後、私のチームである紅茶の雑誌広告とCMを考える仕事があったのですが、コピーは格段に上手くなっていました。

あれから20数年の時が流れ、最近その彼女がJWTを辞めたことをfbで知りました。良く頑張ったと思います。

最後に会ったのは、彼女の結婚式?いや私が経営していた飲食店のオープン時に、一度みんなで来てくれましたから、15、6年前ですかね。

■最後の弟子は、手強いお嬢様。

最後の弟子も女性です。私は広告代理店を辞めた後、フリーとして活動していましたが、縁あってC&R社と契約を結びクリエイティブディレクター兼プロデューサーとして働いていた時のアシスタントです。

Nさんはお嬢様大学を卒業後、いわゆる『三行広告』(案内広告)専門の代理店にいたのですが、共通の知り合いから紹介され、コピーライター見習い兼アシスタントとして雇ってもらいました。色々な意味で一番手間が掛かった弟子です。 

コピーライターの基本となる情報整理の仕方から、戦略の立て方、切り口の見つけ方、表現アイディアの発想法まで、実際の案件に沿ってOJTのように、繰り返し教えたつもりだったのですが、なかなか習得できません。

別にキツイ言い方も、無茶な指示もしていないのに、ふと横を見ると泣いていることも。恐る恐る理由を聞くと、泣きじゃくりながら「出来ない自分が悔しいんです。」と返してきました。

すでに40歳過ぎの立派なオジサンだった私は、その涙と言葉に“胸キュン!”(死語?)すると共に、“一皮剥く”ことが必要だと感じました。要は“お嬢様気質”からの脱皮です。

それまで、「情報を整理し、自分なりの視点で消化してコピーを書く。」ことを中心に教えていましたが、それ以降、彼女にはもっと現場の空気を吸わせ、どれだけの人が、どれだけの想いで広告に携わっているのか、身をもって感じるように仕向けました。

具体的には、ブリーフやプレゼンに同行させたり、CMの打ち合わせや撮影に立ち会わせたり、退社後も食事を兼ねて友人のクリエイターを紹介したり、時には休日のロケハンに付き合わせたこともあります。

もちろん、すべて本人の了解を取ってのことですが、今のご時世なら、これらは『パワハラ』、『セクハラ』の類でしょうね。でも、彼女には不可欠な経験だったと思っています。

1年半ほどアシスタントを務めてくれましたが、会社の事情もあり、彼女自身もステップアップしたいというので、知っているコピーライター事務所や広告制作会社に声を掛けました。

タイミングよく、私が新卒で勤めていたクリエイターズグループMac(旧:ナショナル宣伝研究所)が中途採用を近く予定しているというので、経験3年以上が条件でしたが、頼み込んで入社試験を受けさせてもらったところ、見事に合格。

コピーライターとして8年ほど頑張っていたようですが、結婚を機に辞めたと聞いています。幾つかの広告賞で名前を見つけた時は、嬉しいというより、ホッとしました。

最後に会ったのは、彼女が転職して1年ほど経った2002の冬ですね。日韓ワールドカップがあった年なので覚えています。私の目の前には“お嬢様”ではなく、“頼もしいコピーライター”がいました。

年を取ると昔のことが懐かしく、つい長々と書いてしまいました。みんな元気でいることを願っています。もし、このブログを読んで「私のことだ!」と思ったら、連絡くださいね(笑)。

 ■今もコピーライターの師弟関係はあるのだろうか?

私は独立して以降、クライアントからの要望でコピーライティング教室は何度か行いましたが、弟子のようにマン・ツー・マンで教えたことはありせん。

今も広告代理店や制作会社では、コピーライターの師弟関係は存在しているのでしょうか?もし存在しているとしても、昔のような濃さはないのでしょうね。

一歩間違えると『パワハラ』『セクハラ』になりそうですし、おまけに過労死などを防止するために『働き方改革』のガイドラインまで示されていますから。

ネットで知る限り、コピーライターのをはじめ、Webライターやセールスライターになるための情報も、また関連書籍の数も、私たちの時代と比べると遥かに多く、恵まれています。

しかし、コピーライターという職業は知識だけではなれません。職人的な側面があり、ある程度は理不尽で辛い経験もしなければ上達しないと、私個人は思うのですが…。昭和生まれの還暦過ぎコピーライターの戯言でした。

今ならパワハラ?の師弟関係?①

その昔、私が新人コピーライターだった時のお話です。新卒で入社したナショナル宣伝研究所(通称:ナショ研)の先輩コピーライターから「明日の朝までにコピーを100本は書いてこいよ!」と言われるのは当たり前。

いざ必死で100本書いたコピーを見せると「ダメだな!」と、その場でコピーを丸めて投げられたり、ゴミ箱の上に置かれたりしていました。

さすがに後で悪いと思ったのでしょう。投げたコピーの中から「これと、これは、面白いと思うよ。でも上(社長)を説得できないかもね。」「この切り口で、もう少し考えてみたら?」などとアドバイスをしてくれました。

また、仕事が終わると、毎晩のように「ちょっとメシ食って帰るよ!」と飲みに誘われ、いつも同じような説教と愚痴を聞かされるのです。そして最後に「明日の朝までにコピー100本だからな!」と言って帰っていきます。

今だと完全に『パワハラ』ですよね。でも、その当時は「これも修行だ!」と、そんなに嫌でもなかったです。ただ、たまに高い飲み屋の支払いを“割り勘”にされた時は「誘われたのに、何で?」と腹が立ちましたがね。

f:id:ymo1959:20201013175139j:plain■私のコピーの師匠は4人です。

まず宣伝会議コピーライター養成講座でお世話になった電通の岡田耕さん。まだコピーライターの卵にもなっていない、私の“微々たる可能性”を最初に褒めてくれた人です。

「このコピーの切り口は素晴らしい。きっと良いコピーライターになれるでしょうね。」と一般コースの時に言われ、その気になって専門コースは岡田耕さんのクラスを選びました。

あっ!河田卓さんにも褒めらたことがあります。私、褒められると勘違いするタイプなんです。

コピーライターになってからお会いしたのは、2、3年続いた岡田クラスの同窓会と、私が卒業生として養成講座で講義をした時ぐらいですかね。

そうそう思い出しました。岡田さんから2度ほど突然電話が掛かってきて、電通系列の広告制作会社に転職しないかと言われ、何回か会っていますね。

いずれもグラフィック広告専門の制作会社だったのでお断りしましたが、中村禎さんや神谷幸之助さんのように電通本体に誘ってくれたら、二つ返事で行ったのにね。

ご本人に直接聞いていませんが、確か新潟のご出身で、年齢的に今年亡くなった私の父と同じ高校の同級生または1年先輩にあたるのではないでしょうか。私の勘違いでしたら、すみません。

随分と前になりますが、岡田さんの訃報は電通報で知りました。本当にありがとうございました。

次の師匠も同じく養成講座でお世話になった電通の石田さんです。岡田さんがお忙しい方だったので、よくピンチヒッターで専門コースの講師をなさってました。石田さんとはコピーライターになってからも、ちょくちょくお会いして飲んでいましたね。

飲みながらコピーのアドバイスを受けたり、転職の相談をしたりしていたのですが、ひょんなことから行き違いが生じ、もう20年以上お会いしておりません。早期退職なさり、東京経済大学の講師などをされていたようですが、お元気でいらっしゃることを願っております。

■コピーライターの基本を叩き込んでくれた師匠。

残る2人の師匠は、前述したナショナル宣伝研究所の先輩こと福永さんと、コピー部の部長だった島田さんです。最後にお会いしたのは4年前でしょうか?当時グループCDだった京藤さんのお通夜の席です。

福永さんは、ちょっとバンカラ(死語?)なところはありますが、曲がったことが大嫌いで、情のある良い先輩でした。

ただ明治大学の出身で、私が法政大学の出身であることを、ネタに色々といわれましたがね。

新人の時は福永さんの広告原稿をリライトすることが多く、“ナショ研調”といわれていた文体がカラダに染みつき、未だに書いていると、ときどき顔を出します。

島田さんは温厚な方でしたが、妙に頑固なところもありましたね。松下電器旭硝子の企業広告/技術広告をメインに担当されており、長めのボディコピーがとても上手かったです。文書の切り方、言い回しなどを良くチェックされました。

私も松下電器の企業広告を担当していたので、島田さんと取材に行くことが多かったです。取材先に対する礼儀作法から、聞くべきポイント、取材後の情報整理の仕方など、色々と学ばせていただきました。

でも、私と同じように島田さんも『校正』が余りお得意ではなく、2人して“ザルのように穴の開いた校正ミス”をするので、営業部の部長から『大ザル、子ザル』と呼ばていました。

■師匠!不肖の弟子ですみません。

実際、今なら『パワハラ』といわれることも多々あったと思います。CMの仕事をしたくて、私はナショ研を5年で卒業し、広告代理店に転職したわけですが、時代の違いか?世代の違いか?人一倍厳しくコピーの基本を叩き込んでくれたことを、還暦を過ぎた今でも大変感謝しております。
(※本当のパワハラはとても陰湿です。残念ながら某会社で経験させていただきましたからね。)

唯一、弟子として心残りなのは、TCCの会員になれなかったことです。4人の師匠はみんなTCC会員なのに。私はTCC準新人賞が2回で終わりました。

30歳前半までは毎年応募していたのですが、CDになったのを機に止めました。他の広告賞は結構貰っている方だと思うので、この不肖の弟子をお許しください。

 次回は、私の弟子について書く予定です。中には弟子と思っていない者もいるかも知れませんがね。

 

コピーは足で書け!

もちろん、鉛筆やペンを足の指に挟んでコピーを書くことではありません。私がコピーライターになった80年代には、当然インターネットなどはなく、コピーを書くための参考資料は、本屋や図書館に足を運んで探すんです。

実際、私は広尾の中央図書館と国会図書館、それに八重洲ブックセンターの常連でした。

また真夜中の青山ブックセンター(麻布警察の近くにある朝まで営業している本屋)に行くと、服に切り張りした写植文字を付け、指先がペーパーセメントで黒くなった、一目でデザイナーとわかる同業者をよく見かけたものです。
(※今の時代に写植やペーパーセメントと言われても、たぶん分からないですよね。)

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松下電器の企業広告なども担当していたので取材も多かったです。それに大規模展示会に行って競合他社のカタログなどを片っ端から集めたり、とにかくコピーを書くための情報は歩いて知るのが一番だったんです。

展示会といえば、今年はコロナ禍で、ネット展示会が多いとか。そういえば、ネット展示会用の動画コンテンツの話がありました。結局、見積競合で負けましたが…

あとで相手の見積を知ったのですが、驚きました。私個人のプロモーションビデオをお願いしたいぐらいの価格です。クオリティは大丈夫なのか知らん?

ネット社会になって、広告制作を取り巻く環境は日々変わり続けています。例えば、昨年の年間広告媒体費で、とうとうネット広告がテレビ広告を抜いちゃいましたよね。

またWebライターやセールスライターという職業が活況を呈しているようなので、まったくの素人の振りをして、昨年『ストアカ』の講座を3つほど聞きに行きました。還暦過ぎのコピーライターも一生懸命キャッチアップに努めているのです。

ストアカ』の体験記は、またの機会に。すみません。ちょっと話が横道に逸れてしまいました。時を戻そう!

私が原稿用紙と“にらめっこ”していると、横の席の先輩コピーライターから、「時代の空気を感じるために、街を歩いてこい!」とも言われました。「時代の空気」「トレンディ」「ナウい」…すっかり死語ですがね。

思い返すと「街を歩いてこい!」は、時代の空気を感じるためではなく、街を歩いている間の気づきと、頭を整理するために必要だったのでしょう。

今でも煮詰まった時は「頭をガラ・ガラ・ポン!」するために歩いています。ただ、歩いた帰りに余計な店に立ち寄ったり、つい無駄な物まで買ったり…その習性だけは還暦を過ぎた今も昔も変わっていないようです。

ペンだこは、コピーライターの証。

まずコピーライターになって入社時に会社から渡されたのは『名刺』、『社章』、『2Bの鉛筆』、『社名の入った原稿用紙』です。名刺に“制作部コピーライター”と書かれているのを見て、本当に嬉しかったことを思い出します。

はじめはキャッチフレーズも、ボディコピーも、すべて2Bの鉛筆で書いていましたが、2年目ぐらいから、キャッチフレーズは『ぺんてるサインペン』で書くようになりました。

まだ制作部にはワープロ(すでに死語)が導入されていなかったので、原稿用紙の段階で長~いボディコピーに赤字が入ると、さあ大変!

修正箇所のみ新たに別の原稿用紙に書いて、元の原稿用紙の上から切り貼りをしたり、またはOKになったコピー原稿の部分だけをコピー(複写)して、その後に書き足したりするんです。めちゃくちゃ面倒でしたね。

毎日鉛筆で原稿用紙に何百文字も書いていましたから、必然的に“ペンだこ”ができます。あの頃、某広告制作会社のTCCコピー年鑑用に制作した広告のメインビジュアルが、コピーライターの“ペンだこ”でしたからね。

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私がワープロを使ってコピーを書きはじめたのは87年頃。会社からコピーライター各自にワープロは支給されていなかったので、長~いボディコピーを書く時は、部内にあった3台のオフィス用ワープロの順番待ちをしていました。今の若い人には、もう『ワープロ』自体がピンときませんよね。

すでに多くのメーカーからパーソナルワープロは発売されていましたが、初期のものはモニタが小さく、表示できる行数も多いもので5~10行程度。長文のボディコピーを書くのには向いていませんでしたね。

88年にクライアントの松下電器パナソニックから今のノートパソコンのようにモニタが大きく、表示行数も格段に多い『パーソナルワープロ・パナワードU1PROシリーズ』が登場。CMに作家の『椎名桜子』が起用されていたワープロです。

私は3年ほどワープロを担当していましたが、その時はすでに担当を外れていたので、泣く泣く自腹で購入し、会社に持ち込んで使いはじめました。

購入したのは“日本一の安売り王”宮地社長で有名だった『城南電機』の自由ヶ丘店ですが、決して安くはなかったです。

熱転写式プリンタ内臓のワープロで、ちょうど男性用ビジネスバックぐらいの大きさ。結構重かったですが、当時は専用バッグに入れて持ち歩いていました。

各コピーライターにパーソナルワープロが支給されはじめたのは89年頃からだと思います。転職した広告代理店で、出社初日に某社のパーソナルワープロが机に置かれていたのですが、ちょっと古いタイプでモニタが小さかったので、自分のワープロを使っていました。

結局、その次に転職した外資系広告代理店でもワープロを持ち込んで使っていましたから、元は十分に取れたと思います。

その後、98年ごろ境にワープロからノート型パソコンに徐々に変わっていきましたね。使いこなすのに結構時間が掛りましたが、「いや~便利になったものだ。」と驚きました。

コピーを書く際、今も変わらないのは、キャッチフレーズを『ぺんてるサインペン』で書くことぐらいでしょうか。但し、原稿用紙にではなく、コピー用紙にですがね。残念ながら、“ペンだこ”は見当たりません。

80年代コピーライターブームの洗礼②

あれは確か就活中の11月初旬、ゼミの教授に呼び出され、その帰りに大学の求人掲示板で見つけた“名も知らぬ広告代理店X”に履歴書を送った翌日のことだったと思います。コピーライター養成講座にいくと、事務局から『ナショナル宣伝研究所(通称:ナショ研)』が新卒のコピーライターを募集していると聞かされました。

この会社は、松下電器の初代宣伝部長だった竹岡リョウ一氏が独立する際、松下幸之助氏から、宣伝部と切磋琢磨して“良い広告を制作する会社をつくれ”との命を受け、1956年に創業した日本で一番古い広告制作会社です。OBには、横尾忠則氏、山藤章二氏、仲畑貴志氏などがいらっしゃいますが、在籍したことを伏せている方も…w

早速応募すると、課題が送られてきました。内容は『大型冷蔵庫』と『ファクシミリ』のコピーおよびビジュアル案、さらに「私と広告」をタイトルにした作文です。ギリギリまで考え抜きたかったので、郵送ではなく締切日に六本木にあった社屋に課題作品と履歴書を持っていきました。その時に総務の方に聞くと、現時点で応募者数は60名ほど、採用枠は1~2名とのこと。非常に狭き門です。

今でも不思議なのですが、私は何故か「ここに通うことになるんだなあ~」と感じて、『ナショ研』の裏にあった“焼き鳥屋“で飲んで帰りました。まだ早い時間だったので社員の方はいらっしゃらなかったはずです。たぶんw

私が感じたように、書類と課題審査を通り、一次面接、最終社長面接と順調に進み、11月末に内定の電話をいただきました。でも正式な通知が送られてきたのが12月半ばで、それまでは「本当に受かったのか?」と不安でたまらなかったです。

そうそう“名も知らぬ広告代理店X”ですが、こちらは最初の面接官が社長だったらしく、あれやこれや挑発されて私がムキになって反論を繰り返していたら、いきなり「君は、筆記試験も、最終面接も免除!内定です!」そして帰り際に社長の名刺と交通費を渡され「でも他の応募者の手前、筆記試験だけは一応受けてね。白紙解答でも良いから。」と、まさに“鳩に豆鉄砲”状態です。最終的に『ナショ研』を選んだのですが、不思議な魅力のある会社でした。

f:id:ymo1959:20201013134930j:plain(※別に正体がばれても良いのですが、念のため個人情報なので保護しておきます。)

入社後、とにかく残業が多く、電車で帰れるのは稀でしたが、たまに大学の同期や後輩たちと飲むとチヤホヤされ、名刺1枚でナンパも連勝。それだけブームの職業だったということです。そういえば、『金魂巻(きんこんかん)』という本が売れ、バブル景気の到来を目の前にして、浮かれはじめていた時代でしたね。

当時の著名なコピーライターはそれぞれ個性を売りにしており、TCCコピー年鑑のテーマが『コピーは僕だ。』という年もありました。一方、私が入社した『ナショ研』は、“プロダクト中心主義”で、来る日も来る日も個性を抑えた“生真面目なコピー”を書き続け、『コピーは僕だ。』どころではなかったです。

でも、その後に転職した外資系広告代理店で“戦略的ブランディング”を徹底的に叩きこまれるのですが、その土台はすでに『ナショ研』で築き上げられていたと思います。

80年代コピーライターブームの洗礼①

私が広告業界を志したきっかけは、80年代に巻き起こったコピーライターブームです。就職活動を控えた大学4年生になる春、就職読本を読んで「広告の文章を考える仕事か…これこそ天職だ!」という根拠のない自信から、宣伝会議コピーライター養成講座に通いはじめました。

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(※別に正体がばれても良いのですが、念のため個人情報なので保護しておきます。)

正直なところ、当時NHK教育テレビの『YOU』で司会を務めていた糸井重里氏以外のコピーライターについてはまったく知らず、養成講座の初日に、周りの受講生が『広告批評』を片手に、「仲畑さんの××のコピーが良いよね!」「真木準の△△のコピーも彼だから書けるんだよ…」などの会話を聞き、面食らったのを覚えています。あの当時、『ナカハタ』といえば、野球の『中畑清』しか思い浮かばない私でした。

とはいえ、何とか養成講座も『一般コース』から『専門コース』へと進み、10月となり就職活動の解禁日を迎えました。大学のゼミ仲間が、次々と企業から内定をもらう中、広告業界、しかもコピーライター1本に絞っていた私は予想以上に苦戦!D通もH堂もD広も撃沈、I企とA通に至っては指定校制で受けられず、Y広では面接官に「またコピーライター志望か…頑張ってね!」と言われる始末です。広告制作会社も回りましたが、コネがない新卒は門前払いで会ってもくれません。

11月に入り、ゼミの教授に就活状況を報告に行った際、大学の求人掲示板に『コピーライター募集・広告代理店X』を発見。聞いたことがない社名でしたが、「就職浪人だけはしたくない」という焦りから、帰宅後、履歴書を急いで書いて郵送しました。

実はその日、教授から「まだ内定が出ていないのは君だけだよ。築地市場で仲買をしている友人の会社を紹介しようか?」と言われていたのです。もし首を縦に振っていたら、趣味の釣りではなく、仕事として“ゴム長”をはいて、魚を捌いてたかもしれませんねw(つづく)

 

再びブログをはじめます。

もう20年以上前になりますでしょうか…広告代理店を辞めて独立し、会社を立ち上げた頃、ネットに詳しい後輩にアドバイスを受けながら、せっせとブログを書いておりました。

しかし、忙しさにかまけて、いつしか書くのをやめてしまい、何ともはやコピーライターとして、お恥ずかしい限りです。

気がつくと私も還暦を過ぎ、ここらで一念発起。人生を折り返す意味でも、心を入れかえて、再びブログにチャレンジしようと思います。

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タイトルは 還暦過ぎコピーライターの回顧録ならぬ“怪顧録”です。私が広告業界を目指すきっかけとなった80年代のコピーライターブームから、バブル景気、ITバブル、リーマンショック、コロナ禍までに、見たこと、聞いたこと、感じたこと。

さらに、老舗の広告制作会社、国内外の大手広告代理店、デジタルマーケティング会社に在籍した経験から、“為にならない話”、ときどき“為になる話”など、あれや、これや書かせていただきますので、宜しくお願いいたします。